大島高任

近代製鉄の父、大島高任

1826年(文政9年)5月11日、盛岡藩の侍医・大島周意の長男として盛岡で生まれました。1842年(天保13年)17歳の時に蘭学(医学)を習得するために上京、江戸で蘭学者箕作阮甫、坪井信道らに学びます。さらに長崎に留学して、西洋兵学・砲術、採鉱、精練に興味を持ち、長州藩士・手塚律蔵とともに、反射炉築造のバイブルであったヒューゲニン少将著『ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法』を翻訳しました。その後、水戸藩に招かれ、那珂湊に反射炉の建設に成功し、大砲鋳造も行っています。そして、この経験から盛岡藩へ戻り、1857年(安政4年)、甲子村大橋(現岩手県釜石市甲子町大橋)に洋式高炉を建設し、1858年12月1日(安政5年1月15日)に、我が国で初めて鉄鉱石精練による出銑操業に成功しました。

その後、盛岡に洋学の日新堂を創設し、坑師学校(専門学校)や工学寮(現東京大学工学部)の設置を進言して創設に携わりました。1890年(明治33年)には日本鉱業会の初代会長に就任しました。そして、1901年(明治34年)2月5日の官営八幡製鉄所の火入れを見届けるかのように、翌月の3月29日、76歳で人生を終えました。