岩手・釜石が築き上げた
日本の製鉄業の礎

岩手県釜石市の山中に洋式高炉が建設されたのは、幕末のこと。開国を迫る欧米の強国と戦うために、負けない軍備が必要だと考えた日本は、欧米と同等の力を持つ鉄製の大砲をつくろうと、日本各地に反射炉(金属を溶かし、大砲を鋳造する炉)や高炉を造りました。欧米のものに引けを取らない大砲を作るためには、より大量に大砲に適した鉄が必要となりました。また大砲に適した銑鉄を製造するために、鉄鉱石を溶かして鉄にする「高炉」が必須となったのです。

洋式高炉の建設にいち早く取り組んだのは、幕末の雄藩である薩摩藩です。薩摩藩から遠く離れた岩手・釜石で洋式高炉が実用化したのには、理由があります。この地域で良質な鉄鉱石が採掘されたことと、それ以上に大島高任という盛岡藩士の存在がありました。水戸藩の反射炉建設にも携わり、洋式砲術の学もあった現岩手県盛岡市生まれの大島は、橋野鉄鉱山の鉄鉱石(磁鉄鉱)を原料に使い、現岩手県釜石市甲子町大橋に建設した洋式高炉で、高炉から溶けた鉄が流れ出す連続操業(出銑)に成功します。その後、現岩手県釜石市橋野町青ノ木に、ヒュゲーニン少将著の鉄製大砲鋳造のための書「ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法」の高炉の設計図を参考に、伝統的な施工技術で洋式高炉を建設しました。全国各地で行われた試行錯誤の実験を経て、明治日本の産業革命の完成段階である八幡につながっていく製鉄業発祥の地であるといわれています。高任やその周囲の人々の血と汗のにじむような努力によって、鉄の大量生産を可能にする技術の礎が築かれたのです。

高任の指導などにより、1858年(安政5年)から1860年(万延元年)ごろにかけて橋野に高炉が建設され、その後釜石地域で明治初期までに7か所13基の高炉が建設されました。
当時の橋野は国内最大級の鉄鉱山でした。現在は、採掘・運搬・製鉄に至る一連の工程を総合的に理解できる遺跡として残っています。1957年(昭和32年)には、高炉跡の範囲が我が国に現存する最古の洋式高炉として、国史跡に指定されました。

日本の近代化に
大きく貢献した橋野鉄鉱山

橋野鉄鉱山をはじめとした釜石における洋式高炉群の成功により、明治政府は1874年(明治7年)の官営釜石製鉄所の建設を決定しました。官営釜石製鉄所では、イギリスの技術が導入され1880年(明治13年)に操業が始まりましたが、失敗に終わってしまいます。その後、官営釜石製鉄所は民営の釜石鉱山田中製鉄所として引き継がれ、苦難の末に製鉄業を軌道に乗せました。さらに、帝国大学工科大学野呂景義が官営時代の高炉を改修し、コークス高炉の製鉄に成功を収めたのです。その実績は官営八幡製鉄所の建設機運に繋がると共に、建設の際には、釜石から八幡に技師や職工が派遣され、その成功に貢献しました。

その価値が認められ
いよいよ世界遺産登録へ

2015年(平成27年)7月5日、ドイツのボンで開催されていたユネスコ世界遺産委員会で橋野鉄鉱山を構成資産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の世界遺産登録が決定しました。橋野鉄鉱山は現存する日本最古の洋式高炉跡で、幕末から明治にかけて日本の産業化の先駆けとなった重工業分野(製鉄・製鋼、造船、石炭産業)の構成資産として登録されました。

写真提供:釜石市教育委員会

現在の形状

橋野鉄鉱山は現在、採鉱、運搬、製錬に至るまでの製鉄工程を総合的に把握できる遺跡として、周囲の森林景観と共に良好な状態で保存されています。高炉跡から南へ2.6kmの大峰山麓北西谷間に採掘坑跡があり、その間に断片的に運搬路跡も残っています。

橋野鉄鉱山には、鉄鉱石採掘場跡と運搬路跡、製鉄の要の高炉跡、水車を利用した送風装置であるフイゴ場跡など、製鉄の生産工程を物語る遺跡が残されています。また、高炉操業に欠かせない木炭は、周辺地域の森林から製造され、高炉を構成する石組みも周辺の花崗岩を利用しており、この地の恵みを活用し製鉄が行われていたことが分かります。

鉄鉱石の採掘場跡や採鉱された鉄鉱石を牛や人力により運んだ運搬路跡、山から切り出した石を日本の施工技術で組み立てた高炉や水路、種焼き場などの生産関連施設、御日払所(事務所)や山神社などが残る高炉場跡と当時の産業システムが完全に残っているほか、操業に欠かせない木炭を供給した森林景観も良好な状態で保存されています。

150年の歴史をもつ
鉄の都「釜石」

大島高任が大橋で洋式高炉による製鉄に成功した1857年(安政4年)12月1日から150年後にあたる2007年(平成19年)12月1日、近代製鉄発祥150周年を記念して釜石駅前にモニュメントが設置されました。大きな鉄鉱石でできたモニュメントには、大島高任ゆかりの方が揮毫した「ものづくりの灯ひを永遠に」という文字が刻まれています。

JR釜石線の陸中大橋駅付近では釜石鉱山が操業していた当時の遺構の数々が目に入ってきます。駅から鉱石の積み出しに使用したホッパー、山肌にしがみつくような選鉱所跡。釜石鉱山は鉄鉱石と銅鉱石を産出し、その範囲は選鉱所跡の奥に釜石市と遠野市の境の山中に10キロ四方にわたる広大なものです。鉱石の大規模な採掘は20年ほど前に終えていますが、現在も研究用途などのために少量採掘されているほか、坑道内の湧水を活用したミネラルウオーター事業や使われなくなった地下空洞の利用など新たな用途を生み出しています。鉱山資料は敷地内の旧鉱山事務所で公開しています。また、教育目的で年数回実施される坑道見学ツアーはガイドの実体験を聞きながら鉱山内の見学が出来ます。