平泉の歴史と価値

11世紀の奥州地方は、安倍氏・清原氏の2大豪族が台頭し、衣川以北の地に勢力を広げていました。
しかし、前九年合戦では陸奥国(現在の岩手県)を基盤とする安倍氏が、後三年合戦では出羽国(現在の秋田県)を基盤とする清原氏が、それぞれ中央政権から陸奥守として派遣された源氏によって滅ぼされます。
その後、唯一生き残った安倍氏と清原氏の系譜をひく奥州藤原氏 初代清衡が、押領使として陸奥国・出羽国を手中に治め、それ以後、歴代の奥州藤原氏が押領使・鎮守府将軍・陸奥守に就任することとなり、平安京の中央政権と一定の距離を保ちながら、奥州における政治・行政上の拠点を形成していきます。

11世紀末、初代清衡は、陸奥国南部の江刺から平泉へ館を移しました。平泉は、東の北上山地と、西の奥羽山脈との間に挟まれた盆地に当たり、日本の北方領域における主要道が北上川と近接して南北に貫く交通の要衝を成していました。
平泉へ移った清衡は、衣川の渡河点として要衝の地を成した関山に中尊寺を造営します。古記録等によると、1105年(長治2年)に多宝寺を、1107年(嘉永2年)に大長寿院(二階大堂)を、1122年(保安3年)に経蔵、1124年(天治元年)に金色堂をそれぞれ建立したことが判明しています。清衡は、1126年(大治元年)に主要な堂塔が完成したことから、大法要を営み、戦争のない理想郷を造りたいという趣旨の願文を読み上げたと伝えられています。その2年後に清衡は入滅し、御遺体は金色堂内に安置されました。

二代基衡は、毛越寺の造営を開始します。金堂円隆寺とその前面の庭園などから成る毛越寺は、背後に控える塔山との緊密な関係の下に、仏堂・庭園が一体となって、主に薬師如来の仏国土(浄土)として表現されました。金堂円隆寺は、わが国に並ぶものがないほどの壮麗さを誇っていました。
基衡は毛越寺の完成を見ることなく、1157年(保元2年)頃にこの世を去ります。

奥州藤原氏三代秀衡は、北上川に近い区域に、政治・行政上の拠点の中核的施設として、居住・政務の場である「平泉館」(居館)、その西に接して、阿弥陀如来の極楽浄土を表現した寺院である無量光院を造営し、政治・宗教・生活が一体化した空間が形成されました。
「平泉館」は、奥州藤原氏の先祖に対する強烈な崇拝精神に基づき、清衡・基衡の御遺体を納めた中尊寺金色堂の正面方向に位置しました。「平泉館」は現在の柳之御所遺跡に比定されています。
「平泉館」の西に建立された無量光院は、さらにその西方に位置する金鶏山を背景として、阿弥陀如来の極楽浄土の姿を表現するために造営され、宇治平等院の伽藍配置と空間構成を発展・継承したものです。
全盛を極めた三代秀衡は、1187年(文治3年)にこの世を去ります。

1189年(文治5年)、鎌倉の源頼朝が奥州に攻め入り、奥州藤原氏を滅ぼしました。これをもって、平泉は日本の北方領域における政治・行政上の拠点としての機能を終えました。

世界遺産「平泉」の価値

平泉には、仏教の中でも、特に浄土思想の考え方に基づいて造られた多様な寺院・庭園及び遺跡が、群として良好に保存されています。寺院や庭園は、この世に仏の理想世界を創り出そうとしたもので、海外からの影響を受けつつ日本で独自の発展を遂げたものです。平泉の仏国土(浄土)の表現は、他に例の無いものとされ、2011年(平成23年)に世界文化遺産に登録されました。