平泉は、仏国土(浄土)を直接的に表した建築・庭園に顕著で普遍的な価値が認められ、世界遺産に登録されました。私たちは、平泉の多様な価値をより広く伝えていくうえで、登録資産に関連する数多くの有形・無形の文化財もまた重要であると考えています。とりわけ、柳之御所遺跡・達谷窟(平泉町)、骨寺村荘園遺跡(一関市)、白鳥舘遺跡・長者ヶ原廃寺跡(奥州市)は、平泉を理解する上で重要な遺跡です。平泉をさらに価値あるものとして世界にアピールするため、登録資産の追加・登録をめざす取り組みを進めています。

柳之御所遺跡

高館の麓から北上川沿いに段丘が広がるこの一帯は、古来、藤原清衡・基衡の屋敷跡と伝えられてきました。1988年(昭和63年)にスタートした一関遊水地事業及び国道4号平泉バイパス建設事業に伴う緊急発掘調査は6年間に及び、その後行われている調査と併せ、遺跡の内容が次第に明らかにされてきています。12世紀の平泉遺跡群の中でもずば抜けた質と量の遺構、遺物の発見が相次いだことから、遺跡は、『吾妻鏡』に見える「平泉館」(政庁)に該当する可能性が高いと評価されています。

調査が進むにつれて遺跡の保存を求める声が大きくなり、建設省(当時)の決定を受け1997年(平成9年)に国史跡に指定され、保存されることになりました。現在は、学術調査を基にした復元整備が行われ、史跡公園として公開されています。

達谷窟

平泉の中心部から西へ約6km付近に位置する寺院です。9世紀初頭に征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷討伐の戦勝と仏の加護への祈願を込めて、京都の鞍馬寺から多聞天(毘沙門天)を勧請し、毘沙門堂を建立したのが始まりと伝えられています。1189年(文治5年)には、源頼朝が奥州合戦の帰路に参詣しています(『吾妻鏡』)。

発掘調査の結果、達谷窟は12世紀にも繁栄していたことが判明しています。毘沙門堂の南側に位置する現在の蝦蟇が池は、往時には池中の中央に中島を擁し、玉石護岸を伴う園池であったことが判明しており、仏堂の前面に設けられた浄土庭園としての空間を構成しています。

窟に設けられた毘沙門堂は、12世紀以降、何度かの火災に遭いながらも再建を繰り返しながら現在まで存続しています。毘沙門堂の西方には、凝灰岩の岩壁に刻まれた大きな磨崖仏があり、現在もなお人々の厚い信仰を集めています。

骨寺村荘園遺跡

骨寺村荘園遺跡は、平泉の中心部から西約12km付近の磐井川沿いに位置し、『吾妻鏡』や『中尊寺文書』に記載のある中尊寺経蔵別当領として、中尊寺経蔵と一体不可分の関係にある荘園遺跡です。発掘調査の結果、12世紀代と考えられる建物跡を始め、同時期の遺物が発見され、荘園開始時期を裏付けることができます。

骨寺村荘園遺跡は、中尊寺に伝来する2枚の『陸奥国骨寺村絵図』によって奥山、里山、水田耕作地や居住地など全体の空間構成が照合できます。平野部には水田耕作地と居住地、山稜部には信仰拠点が分布するなど中世の農村の土地の利用状況を伝えており、資料に裏付けられる中世の農村空間が今日まで維持された世界的に類例を見ない稀有な事例です。

白鳥舘遺跡

白鳥舘遺跡は、平泉町中心部から北東約5kmの北上川西岸に位置しています。周囲は北上川が大きく蛇行する地点にあり、川に半島状に突き出した丘陵から裾野の低地一体が遺跡となっています。

遺跡は、奥州藤原氏の祖である安倍氏の柵跡との伝承をもち、中世後期の城館遺跡でもあります。

発掘調査の結果、12世紀から13世紀初頭の堀立柱建物跡群と手工業生産遺構群、14~15世紀の城館跡などが確認され、11世紀から15世紀にかけて北上川舟運の要衝地として断続的に機能していたことが判明しています。特に、遺跡南西部の低地に分布する掘立柱建物群と手工業生産遺構群からなる12世紀の遺構は、平泉中心地域外における奥州藤原氏の経済活動を示す例として極めて貴重です。

写真提供:奥州市教育委員会

長者ヶ原廃寺跡

奥州藤原氏の母方の出身氏族、安倍氏によって建立されたと推測される寺院の遺跡です。発掘調査の結果、約1000年前に、本堂・西建物・南門の3つの礎石建物、1辺約100mの築地塀が造営されたことが判明しました。はっきりした存続期間は不明ですが、安倍氏が前九年合戦で敗れたのに伴って廃絶したと推測されます。

衣川流域には、奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝も足を運んでいますが、繁茂する草に覆われて礎石などを見ることができなかったということが『吾妻鏡』に記録されています。