「吾朝無双(我が国に並ぶものがない)」
それほどの壮麗さを誇った往時の姿

毛越寺は、12世紀中頃に奥州藤原氏二代基衡が造営した寺院です。毛越寺の地割の東端が金鶏山の山頂から南への延長線に合致することから、毛越寺の設計は金鶏山の位置と緊密な関係を持っていたことが知られています。

鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』によると、12世紀末期の毛越寺には、40にも及ぶ堂宇と500にものぼる禅坊が存在したとされています。毛越寺の主要伽藍は、二代基衡が建造した円隆寺、三代秀衡が建造した嘉勝寺などからなります。壮麗さにおいては国内で並ぶものがないと評された円隆寺は、北側に位置する塔山(標高121m)などの丘陵の区域を背景として建てられており、堂内には平安京の仏師に製作を依頼して完成した薬師如来像が本尊として安置されました。これらの南側には大きな園池が広がり、薬師如来の仏国土(浄土)を表す浄土庭園が造成されました。

発掘調査により、円隆寺跡、嘉勝寺跡、講堂跡、常行堂跡、法華堂跡などから成る伽藍の礎石や基壇が発見されました。「大泉が池」の発掘調査では、北東岸において導水のための遣水を発見したほか、西南岸の池尻においては排水溝を発見しています。また、儀式の遺構としては、園池の北岸に当たる仏堂前面において、幡などを立てたと推定される一群の柱穴跡も発見されました。さらに、毛越寺境内と東隣の観自在王院境内との間には、南北方向の通路状の石敷広場跡と牛車を格納する車宿の跡が発見されており、『吾妻鏡』の記述を裏付けています。

浄土の世界がひろがる
日本を代表する庭園

仏堂の前面に設けられた「大泉が池」を中心とする庭園は、発掘調査の結果、東西約190m×南北約60mの規模を有し、洲浜・出島・立石・築山など多様な構成要素から成ることが分かりました。東岸には優美な海岸線の風情を漂わせる緩やかな曲線の洲浜が入江を形成するのをはじめ、南東岸には波が多く岩石の多い海岸である荒磯を表現して高さ約2mの立石を中心とする出島があり、南西岸には荒々しい岩肌が断崖の風情を漂わせる高さ4mの築山があります。北東岸の遣水を経て導き入れられた水は池中を東から西へと流れた後、池尻に当たる西南岸から境内外へと排水されます。

緩やかに蛇行する遣水は長さ約80m、幅約1.5mあり、庭園における遣水の意匠・技術の全容を知る上で極めて貴重な遺構です。発掘調査によって12世紀に造られたままの状態で地下に残されていたことが明らかとなり、1988年(昭和63年)に修復・再生されました。

この庭園の構成及び細部の意匠・技術は、11世紀後半の作庭技術書である『作庭記』の「自然を尊重し、自然に習う」と記された当時の作庭の理念、意匠・技術に正確に基づくものです。

左右対称形の翼廊を伴う仏堂の南側に園池を設け、仏堂背後の塔山と一体となって、主に薬師如来の仏国土(浄土)の表現を意図して造られた浄土庭園である毛越寺庭園は、12世紀の様相を完全な形で現在に伝える点で、日本庭園史上におけるその価値は計り知れないほど高いといえます。

写真提供:平泉町教育委員会